心を制御するとはどういうことでしょう。
心はもともと揺れ動くものですし、止めようと思っても難しいです。
さらに厄介なことに、心の動きには潜在的傾向があるので、どうしてもそこに引っ張られてしまいます。
真理を聞いていくら頭で理解したとしても、心の癖は弱まることなく湧き上がってきます。真理を自分の奥深くまで全身全霊でたたき込まなければ、心の潜在的傾向から逃れることは難しいのです。
こんな風に聞くととても厳しい鍛錬に聞こえるかもしれません。
だから私は「放棄」の道が楽かなと思います。
心を放棄するとは、心を神に明け渡すことです。これをバクティーヨーガ、神の愛と言います。
私たちは常に高次の力に操られています。今こうして健康で幸せに過ごしていられるのも高次の力の働きによるものなのです。
このことを認識することもバクティーヨーガに繋がります。
心の在りかをどこに持っていくか。それによって映し出される世界が変わります。
不安や恐れを感じている時、心はどこにあるのでしょうか。
サティアサイババは、「世間で暮らしなさい。しかし世間のものにはなってはなりません。」と説きました。
心を神に明け渡すとは、現実世界を歩まないという意味ではなく、心の住処を神様や高次にしておくことで自分自身が不安を持たずに行為することに集中ができ、自分の使命や義務がスムーズに果たせるということです。
それは結果喜びに繋がります。
心を神に明け渡していれば、行為に縛られることもありません。
ヒンドゥー教の聖典の一つである「バガヴァッド・ギーター」で、クリシュナ神は行為について語っています。
「神に全てをお任せし、果報を考えずに行為する人は、この世において善悪のカルマから解放されるだろう」
善悪のカルマから解放された行為とは、行為からも解放された時に成り立ちます。
私がするのではなく、されるという感覚で行為すること。
行為者という感覚を手放して、自らを道具として神に差し出す。
このようにして為された行為は、カルマから解放されるのです。
行為のヨーガをカルマヨーガと言いますが、カルマヨーガはその人の運命において避けられない場合もあります。それはもう「決まっていること」なので仕方のないことなのですが、そんな時に行為者の感覚に縛られていると苦しいです。
やりたくもない仕事をやっている。
この時の心は現実世界の状況の中にいます。そして、自分がしているという感覚に縛られています。だからこそやりたくないという感情が生まれるのです。
心は高次の波長に合わせ、ただやるべきことをやるという感覚で行為する。
そうすると物事は淡々としてくるのですが、心の中には安定した幸福感が得られます。
そして体の不調や痛みなど、またはコンプレックス、そういったもので一喜一憂する気持ちも神様のところに置いておきましょう。
そのうえで身体を大切にする。
身体は自我と同一視しやすいので、気持ちをそこから話すことは難しいですが、天にお任せできるとより楽です。それが受け入れるということではないかと思います。
誰もがそれぞれにとって必要な学びができるように、それに合った身体を選んで生まれてきています。
だから悩むことも苦しむことも計画通りなのですが、心を克服することによってそれは必ず乗り越えられるものだと思います。
ものや環境などの条件つきの幸せではなく、内側に揺るぎない幸せを得ることが大切ですね。